2Pacのアルバムや映画制作、ファッション、名曲 その生涯を追う。

命日1996年9月13日、享年25歳。

HIPHOP界のレジェンドで、死してもなお世界に影響を与え続ける2Pac。

かのエミネムは2Pacの生き様から立ち上がる勇気をもらい、ケンドリック・ラマーは2Pacの影響で人々の代弁者になることを目指しました。

一般社会のみならず、才能あるアーティストたちへの影響力も計り知れない彼の短い生涯を追いました。

2Pacのプロフィール

出生名 Tupack  Amaru Shakur
別名 Makaveii・MC New York
生年月日 1971年6月16日 (1996年9月13日、25歳没)
身長 176cm
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク市マンハッタン区
レーベル Interscope・Amaru・Death Row

2Pacの本名、Tupack Amaruは実は1歳のときに母親に改名されたもので、それまではLesane Parish cooksという名前でした。Tupack Amaruは「Shining Serpent」とも表現される、16世期に実在した、スペインの支配に抵抗し命を落としたインカ帝国の皇帝の名前です。母親は「世界中の先住民の革命家としての名前を授けたかった。」と語っています。


2Pacの生い立ち・デビューまで

ブラック・パンサーに囲まれた環境

2Pacは生を受ける前からブラック・パンサー党員に囲まれ、その人格形成に多大なる影響を受けながら育ちました。ブラック・パンサーは共産主義と黒人民族主義を掲げ、黒人解放闘争を繰り広げると同時に、貧困層への救済活動を行っていた政治組織です。

2Pacはニューヨーク市のマンハッタン区のイースト・ハーレムに生まれました。2Pacの母、Afeni Shakurは、ブラック・パンサー党員。Afeniは2Packを妊娠中、警察署の爆破事件などへの関与の疑いで獄中にありました。実の父はBilly Garllandと言われていますがはっきりとしたことはわからないようです。2Pacとは大人になるまで音信不通でした。2Pacの継父のMutulu Shakurもブラック・パンサー党員で、1986年に逮捕され強盗殺人の罪に問われ60年の刑で収監されています。義理の叔母のAssata Shakurはニュージャージー州で収監されていましたが脱獄し、その後キューバに亡命しました。

社会で起きている問題について息子に知ってもらいたい、という願いから、母Afeniの幼い2Pacへのしつけでの罰はなんと、「New York Times」誌を一面から社会面まで全て棒読みさせる、というものでした。2pacの反骨精神とリリシストとしての素養はこの頃から培われたのかもしれません。

2Pacたちの住まいはProjectと呼ばれる低所得者住宅で、生活は常に困窮状態にありました。そんな中でしたがAfeniは2Pacの演劇の才能を見出し、劇団”127 STREET ENSENBLE”に入れました。その劇団の公演で2Pacは12歳でアポロシアターに出演した経験があります。この経験はその後の彼の進学や演劇との関わり、そしてパフォーマーとしての道筋につながるものとなります。

芸術学校時代

1984年、2Pacの家族はニューヨークからメリーランド州のボルチモアに引っ越します。

2Pacは舞台劇術の名門校、ボルチモア・スクール・オブ・アーツで演劇と詩、ジャズとバレエを学びました。演劇ではシェイクスピアの作品で主役を演じ、その才能を発揮しています。ボルチモア・スクール・オブ・アーツ時代の親友に、『The Matrix Reloade』『Man In Black3』など数々の映画に出演している女優、Jada Pinkettがいます。Jadaは俳優Will Smithの妻でもあります。

当時の2PacはKate BushやCulture Club、Sinéad O’connor、U2などの曲も聞いていたそうです。ボルチモアでは共産青年同盟にも参加していたようで、この時代の2Pacは、詩や演劇に親しむ、非常にリベラルな思想を持つ教養のある若者、というようなキャラクターだったのではないでしょうか。

イースト・コーストからウエスト・コーストへ

ボルチモア・スクール・オブ・アーツで演劇に打ち込んでいた2Pacでしたが、1988年、ボルチモアから、カリフォルニア州 サンフランシスコの約8キロ北に位置するマリンシティに引っ越します。ギャングの抗争の銃撃で、近所の男の子が命を落としてしまったことに不安を感じたAfeniが2Pacと妹をマリンシティの友人宅へ預けることにしたのです。Afeniもあとからマリンシティへと移ってきましたが、マリンシティは警察が「ジャングル」と呼ぶような荒んだ地帯でした。ほどなくしてAfeniはクラック中毒に陥ります。

そんな母Afeniに嫌気がさし、2PacはAfeniとの口論の末家を飛び出し、空きアパートを不法占拠するグループと共に暮らすようになります。そんな中でもタマルパイアス高校に通い、こちらの学校でもいくつかの演劇作品に出演しています。

一方、2Pacもクラックの密売に手を染め、ギャングの一員として連帯感を覚える経験をします。しかし「母Afeniがクラックを買っていく姿を友人達が目撃した」という話を聞きすぐに足を洗います。

Digital Undergroundへの参加

学校を辞め、職を転々とし、ギャング仲間とつるむ日々に明け暮れるなか、2Pacの興味は演劇からラップへと移っていきます。1989年にはMC New Yorkの名前でレコーディングを始めます。そんな折に出会ったLeila Steinbergという女性が彼の才能を見出すことになります。

きっかけは、Leilaが公園でネルソン・マンデラ夫人の伝記を読んでいる時、偶然2Pacがその内容を暗唱していたことでした。衝撃を受けたLeilaは自身が開催している詩のクラスへ2pacを誘います。そのクラスでLeilaはすぐに2Pacのリリックと人の心を掴む才能を確信します。

音楽業界とも繋がりがあったはLeilaは、Digital Undergroundに2Pacを紹介します。Digital UndergroundはShock GとChopmaster-Jを中心に結成されたヒップホップグループ。George Clinton率いるPファンクの後継者的存在でもありました。

2PacはDigital Undergroundのサポート役でキャリアをスタートし、ほどなくしてバックダンサーとしてステージに上がり、マイクも握るようになります。

1991年、2Pacの名前でDigital Undergroundの「Same Song」で最後のバース を担当します。「Same Song」はDan Aykroydの初監督映画「Nothing but trouble」のサウンドドラックに収録された曲で、この曲のミュージックビデオで2Pacはアフリカの王として登場し、このシーンは映画の本作にも登場します。


デビューからスターダムへ。そして早過ぎる死

 

この投稿をInstagramで見る

 

“I told the judge ‘I was raised wrong, and thats why I blaze shit’” – All Eyez On Me. Certified diamond. Link in bio.

Tupac Shakur(@2pac)がシェアした投稿 –


1991年11月、Interscope Recordsより2Pacのソロ・デビュー・アルバム「2Pacalypse Now」がリリースされます。「2Pacalypse Now」はアメリカが直面している差別や貧困、警察による残虐行為、黒人が黒人に対して行う犯罪、十代の妊娠などという社会問題を題材にした作品でした。この作品のリリックの暴力性に対し、当時の副大統領Dan Quayleが名指しで、「このようなレコードが世に出される理由はない。この社会に不適合だ」と批判。それだけこの作品が当時のアメリカ社会に与えた影響は大きかった、ということがうかがえます。このアルバムは50万枚を売り上げ、1995年にRIAA(アメリカレコード協会)は「2Pacalypse Now」をゴールド・ディスクとして認定しています。

1992年、2Pacは映画「Juice」に出演し、自分の犯罪を隠蔽するために仲間までをも撃ち殺す、冷血な”ビショップ”役として、俳優でも注目を浴びることとなります。実はこの役はDigital UndergroundのMoney Bがオーディションを受けた役でしたが、彼では役不足でした。オーディションについて行った2Pacは脚本を奪い取り、「俺ならこの役は朝飯前だぜ」と言い放ち、プロデューサーのNeil Moritzの前で演じて見せました。その演技は Moritzに衝撃を与え、2Pacは役を獲得します。撮影がクランクアップした日、Moritzは2Pacを傍らに呼び、「君は10年後にはとんでもないスターになっているはずだよ」と言いましたが、その時2Pacは「俺は10年後にはもう生きてないよ」と答えたそうです。

1993年、2枚目のアルバム「Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z…」がリリースされます。このアルバムは全米で100万枚の売り上げを突破し、プラチナ・レコードに認定されます。

この年には、「Poetic Justice」で主役のJanet  Jacksonの相手役として映画出演もします。ちなみに、Janet  Jacksonはこの作品が映画初出演で、同年のゴールデン・ラズベリー賞において最低新人賞を授与されてしまいました。それでも「Poetic Justice」が映画作品として鑑賞に耐えうるものになっているのは、2Pacの演技力によるところが大きいのではないかと思います。

1994年には2Packが結成したグループ、Thug Lifeの名義で「Thug Life: Volume I」がリリースされます。同年の2Pacの主演映画「Above the Rim」のサウンドトラックにThug Lifeの曲も収録されています。

3枚目のアルバム「Me Against The World」は1995年、女性への暴行容疑で有罪となった2Pacの服役中に発表されます。発売から1週間で24万枚を売り上げ、2Pacはこのアルバムで自身初の全米アルバムチャート1位を獲得しました。ロックの殿堂から「史上最高の200枚のアルバム」の1つに選ばれ、Kentrick Lamarも最高傑作に挙げている名盤の1つでもあります。

Death RowレーベルのSuge Knightの働きかけにより、なんとか保釈となった2Pacは、1996年2月に4枚目のアルバム「All Eyez on Me」を同レーベルからリリースします。保釈直後からのわずか2週間で制作されたにもかかわらず、27もの曲を収録したこのアルバムは、ラップ史上初めてのダブル・アルバムになっています。「All Eyez on Me」は全米アルバム・チャート初登場1位を獲得。発売1週間で56万枚を売り上げ、1998年には9x、2014年には10xマルチ・プラチナ・アルバムとなります。収録曲の「How Do U Want it」「California Love」はビルボードの”Hot 100″ランキングで1位を獲得します。暴行事件の件で周りにハメられたという疑心、暴行事件の公判中にスタジオのエレベーター前で5発もの銃弾を受けたこと、その襲撃の首謀者に抱く疑い、重犯罪刑務所での過酷な体験、そして、不穏な噂の絶えないDeath RowおよびJuge Knightとの契約。あまりにも衝撃的なそれら一連の経験を経て、「 All Eyez on Me」はギャングスタ・ラップ色をより強めた作品となりました。

1996年9月8日。ラスベガスで友人、Mike・Tysonの試合を観戦後、横付けにされたキャデラックからの銃弾を4発受け、6日後の9月13日に2Pacはその短い生涯を閉じました。25歳でした。犯人は未だ、特定されていません。

刑務所内で熱心に読んでいたマキャベリに影響を受け、生前に変えていたMakaveli(The Don Killuminati)という名前で制作したアルバム『The Don Killuminati: The 7 Day Theory』は彼の死の2ヶ月後に発売されました。発売後1週間で66万枚以上売り上げ、”Billboard200”で1位にランクインします。2005年、MTV.com はこのアルバムを史上最も優れたヒップホップアルバムの9位に選びました。

2Pacの死後、生前の枚数を超えるほどのアルバムがリリースされました。1997年『R U Still Down?(Remember Me?)』2001年『Until the End of Time』2002年『Better Dayz』2004年『Loyal to the Game』2006年『Pac’s Life』と続いたアルバムの発売に、2Packの生存説が流れることもありました。しかし、アルバムの連発は彼の生前の旺盛な仕事量が為せる技であり、生存説は類稀なカリスマ・2Pacの早過ぎる死を受け入れられないファンたちの願望でもあったのでしょう。


2Pacのファッション


端正で甘いルックスと完璧な肉体を持つ2Pacのファッションはヒップ・ホップファンのみならず、当時の若者に多大なる影響を与えました。

バンダナをスキンヘッドにウサギの耳のように巻くスタイルや、肉体とタトゥーを強調するかのようにボトムスをギリギリまで下げるスタイル、ストライプのシャツやスーツをベストやサスペンダーでカジュアルに着こなすスタイルなど、どんなファッションも似合ってしまうのが2Pacでした。

NIKE SBが2018年に2PacとNotorious B.I.G.の名前を冠したスニーカー「”Biggie”vs”Tupac”pack」を発売しました。「 ”Biggie” vs. ”Tupac”Pack」には、Notorious・B.I.G.からインスパイアされた「Nike SB Dunk Low」と、2Pacからインスパイアされた「ナイキエアフォース2」が含まれています。


2Pacの名曲

Keep Ya Head Up

アルバム『Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z…』収録曲。銃撃で殺された15歳の黒人女性、Latasha Harlinsに捧げる曲として作られました。黒人女性に向けたアンセムとして当時としては画期的な曲であり、全米シングル・チャートで第7位を獲得しました。2Pac後期のThug(犯罪者的)な曲からは考えられないほど優しさと温かさに満ちたテイストの曲です。

Dear Mama

 

母、Afeniに捧げられた名曲で『Me Against The World』に収録されています。この曲は全米ラップ・シングル・チャートで1位、全米シングル・チャートでも9位を獲得しています。

「この世の中の女性であなたの代わりになる人にはいない。」と、一時期は薬物中毒になった姿を受け入れかねたこともある母に対する感謝を素直に伝える曲となっています。

California Love

この曲は1995年に2Pacが刑務所から釈放された後にリリースされた、カムバック・シングルで、Billboard  Hot 100で2週間連続1位を維持した大ヒット曲です。Dr.Dreのプロデュース曲で、アルバム『 All Eyez on Me』に収録されています。Joe Cockerの『Woman to Woman』をサンプリングしたトラックが印象的な名曲です。


いかがでしたか?

彼の短くも濃密な生涯を追うことで、彼の人となりを垣間見えたのではないでしょうか?

USラッパーについてもっと知りたい方は「USラッパー20選【2020年最新版】」を参考にしてください。