KREVA徹底解説! 成功までと、ファッションのこと、嫁・娘のこと、楽曲のこと

みなさんは、ラッパーKREVAときいて何を思い浮かべるでしょうか。

前人未到、B-BOYパークMCバトル3連覇にBY PHAR THE DOPESTの成功、そしてKICK THE CAN CREWでの快進撃に、ソロプロジェクトでの大ブレイク、そういった活躍から、KREVAは日本で1番成功したラッパーと言っても過言ではないでしょう。

この記事では、そんなKREVAについて、彼の詳しい生い立ちから、嫁や娘といった情報、さらには代表曲までを徹底的に解説していきます。

 

KREVAのプロフィール

ananweb.jpより出典

出生名 畠山貴志
アーティスト名 KREVA
生年月日 1976年6月18日
身長 177cm
生誕地 青森県弘前市
出身地 東京都江戸川区
レーベル SPEEDSTAR RECORDS

生い立ちからKICK THE CAN CREWとしての成功まで

KREVAは1976年に青森県弘前で生まれました。もっとも、転勤族であった父の影響から弘前市に住んでいたのはわずかな期間であり、その後神奈川や千葉などを転々としています。ようやく落ち着いたのが、小学4年生のとき、千葉から引っ越してきた東京都江戸川区です。子供のころのKREVAはとにかくサッカーが好きな少年でした。江戸川区の少年クラブチームでサッカーをはじめ、高校生になるまで続けています。

そんなKREVAがHIPHOPカルチャーとはじめて遭遇したのは、中学生のときです。1980年代にテディ・ライリーらが世界的に大流行を巻き起こしたニュージャックスウィングブーム。KREVAはその中でも特にボビーブラウンに強い影響をうけて、中学生にしてラップで食べていくことを誓ったそうです。

高校は、国際バカロレア認定校であり、帰国子女が多く在籍する東京都立国際高等学校に進学しました。同校は外国人や帰国子女が中心なので、日本人として日本で生まれ育ったKREVAが入学するのは大変めずらしいケースです。同校の自由な気風と合っていたKREVAは、その才能をメキメキと伸ばしていきます。

大学は慶應義塾大学の環境情報学部です。そして、この大学生時代に、はじめてラップを人前でやるようになり、小学生時代からの幼馴染とグループを結成します。BY PHAR THE DOPESTと名付けられたこのグループは、KREVAとCUEZERO(後のCUE)からなり、黎明期であった日本語ラップシーンのアンダーグラウンドで活躍します。大学生時代には、多くのラッパーとも知り合うよりになり、特に後にFGクルーで一緒になる、RHYMESTERの宇多丸やMUMMY-Dからは強い影響を受けました。

KREVAのラッパーとしての転機は、1997年にリリースされたコンピレーションアルバムに収録されているカンケリという曲の制作です。この曲は、KREVAと別のグループで活動していたMCU、ソロで研鑽の日々を過ごしていたLITTLEが共演して作りました。制作する過程において、3人はたしかな手応えを感じ、また友人にもなりグループを結成します。本格的なラッパー、ラップグループとして初めて紅白歌合戦に出場するグループ、KICK THE CAN CREW誕生の瞬間です。KICKは2001年に「スーパーオリジナル」でメジャーデビューすることになりますが、それまでの間にKREVAはソロである偉業を成し遂げています。それが、前人未到であったB-BOY PARKでのMCバトル3連覇です。2020年では伝説として語り継がれているこの偉業は、1999年から2001年にかけておこなわれており、KREVAはその間、般若やMC漢といった名だたるラッパー相手に勝利をおさめて優勝しています。後にポップの世界でも活躍するKREVAがディスられないのは、このときの圧倒的な強さによるところが大きいでしょう。

KICKは、メジャーデビュー後も山下達郎の名曲をサンプリングした「クリスマスイブRap」や明朗なパーティチューンである「マルシェ」など大ヒットを次々と飛ばします。そして2002年には紅白歌合戦に出場。その地位を確固たるものにまでしましたが、音楽の幅が狭まるという理由で2004年にグループとしての活動を休止します


ソロプロジェクトとしての成功

rollingstonejapan.comより出典

グループの活動を休止したKREVAが次に始めたのは、ソロでのラップ活動でした。2004年9月に自らを「新人クレバ」と銘打って、「音色」でソロメジャーデビューを果たします。この年、リリースした「音色」や「ひとりじゃないのよ」、翌年にリリースした「イッサイガッサイ」や「ファンキーグラマラス feat.MUMMY-D」はKREVAの初期代表曲になっていきます。楽曲への高い評価が売上にも直結し、2006年にはソロの日本人ラッパーとしてはじめてオリコンチャート1位になりました。同年には、さらにおなじくソロの日本人ラッパーとして初の武道館ライブも成功させ、冬の時代であった日本語ラップのシーンにも関わらず、着実と成功をしていきます。それ以降も久保田利伸やスピッツの草野マサムネとのコラボ、日本語ラップシーンにおける自身を王者に例えた楽曲など、2020年に至るまで一貫として売れ続け、日本人ラッパーの代表格として活躍しています。


KREVAのファッションは?嫁や娘はいるの?

natalie.muより出典

KREVAはそのファッションセンスでも高い評価を得ています。彼が主に着るのは、一般的なラッパーのB-BOYファッションではなく、着こなすのが難しいモード系のためです。好きなブランドとしては、adidasやY-3などが挙げられ、アルバムジャケットからライブまで幅広く愛用しています。

KREVAは結婚をしており、奥さんと娘さんがいます。結婚したのは2008年の4月で、交際歴は4年以上、相手の女性は一般女性でKREVAより1つ上です。もともと、イベント会社の社長秘書をしていた奥さんが、KREVAのライブに来てそこから交際に発展したそうです。娘さんは2人おり、インスタグラムやTwitterで仲睦まじい様子を伺い知ることができます。


KREVAの代表曲

音色

ソロプロジェクトをはじめて最初にリリースしたシングルです。内容は、音楽に対するラブソングであり、KREVAのメロウなラップを楽しむことが可能です。

 

イッサイガッサイ

ソロプロジェクト初期の名曲中の名曲です。HIPHOPに大胆にもアコースティックギターの要素を取り入れており、HIPHOPのヘッズ以外にもとても流行しました。

 

挑め

KREVAがまさに日本語ラップにおける王者になってからリリースした楽曲です。挑み続ける自身、そして成功するためにはもっと挑めと聴く人を鼓舞します。音源が無料で公開されたことから、リミックスも盛んにおこなわれた曲です。


今回は、KREVAについて、その詳しい生い立ちから代表曲までを徹底的に解説してきました。いかがだったでしょうか

KREVAがいかに日本語ラップの王者になりえたのか分かりましたでしょうか。そのほか、KREVAには奥さんや娘さんもいます。

この記事を読んでKREVAに興味を持った方はもちろんのこと、そうでない方も試しにKREVAの楽曲を聴いてみてはどうでしょうか。

日本人ラッパーについてもっと知りたい方は「押さえておきたい日本人ラッパー20選【2020年最新版】」を参考にしてください。