ドクター ドレーの生い立ち。クロニック、2001の成功だけではない名プロデューサー!

ドクター ドレーと聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

Chronic(クロニック)、2001のアルバムとしての成功をイメージしたり、「プロデューサーとして名前は聞いたことあるかも?」という方もいるのではないでしょうか?

プロデュースした名曲の数々のこともさることながら、実は「世界で最も高収入のミュージシャン」という実業家としての顔も持ち合わせています。

ここでは、そんなドクター ドレーの生い立ちから、成功までの道のりをご紹介します!

ドクター ドレーのプロフィール

drdre.comより出典

出生名 Andre Romel Young
アーティスト名 Dr. Dre
生年月日 1965年2月18日
身長 185cm
生誕地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 コンプトン
出身地 アメリカ合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス
レーベル プライオリティ、デス・ロウ、アフターマス、インタースコープ

生い立ちからプロデューサーとしての成功まで

ドクター・ドレーは1987年カリフォルニア州コンプトンに生まれました。のちにプロデュースすることになる、Kendrick Lamarと同じ場所なのは運命的なものを感じます。コンプトンは全米でも極悪なギャング団を有することで有名な、暴力の代名詞とも言われる街です。父親はアマチュアで活動するミュージシャン、母親は彼を出産する直前までグループに所属していた歌手でした。両親の離婚後、ドレーは母親と住むことになり、引越しを繰り返した結果、コンプトンエリアにある低所得者プロジェクトで生活をすることとなります。

両親の影響もあって音楽と身近な関係であったドレーは、高校時代に学生生活よりも音楽制作に興味を抱いていました。クリスマスギフトにもらった音楽ミキサーをきっかけに、楽曲制作に没頭していきました。その後のクラブに出かけ始めたドレーは、ナイトクラブで活動していたエレクトロ・グループ「The World Class Wreckin’ Cru」に加入してキャリアをスタートさせました。プリンスの全盛期だったこともあってか、メンバーが化粧をしてたというのは興味深い話です。「The World Class Wreckin’ Cru」は1985年にファーストアルバムをリリースしましたが、ドレー自身は金銭トラブルがきっかけで脱退します。

1986年にN.W.A.を結成し、1987年のデビュー・アルバム「Straight Outta Compton」は大ヒット。このアルバムはウェブサイト「ピッチフォーク」において「1980年代のトップ・アルバム100」の第35位に選も選ばれています。(ちなみに、ピッチフォークは、過去にレビューで0.0点の酷評を付けたことがあるほど厳しい目を持ったメディアです。)過激なストリート生活のリアルを綴ったリリックとその攻撃的な楽曲で、N.W.A.は「ギャングスタ・ラップ」と呼ばれる暴力的な日常がテーマのラップスタイルを確立しました。この活躍で、それまでロックが担っていた不良的なイメージをヒップホップが担うようになりました。ちなみにN.W.A.の名称は「Niggaz Wit Attitudes = 主張する黒人たち」の略。自分たちの過激な日常を通して、自身の過去やそこから得た強さを表現したかったのではないでしょうか。

1992年にN.W.A.を脱退したドレーは、Suge KnightとともにDeath Row Recordsを設立します。そこで自身のソロ・アルバム「Chronic(クロニック)」を発表し大ヒットを記録しました。このアルバムはグラミー賞2部門にノミネートされ、ベスト・ラップ・ソロ・パフォーマンス賞を獲得しました。キーボードを多用したメロディックでゆるいグルーヴのサウンドは「G-ファンク」と呼ばれ多くのフォロワーを生みました。(スヌープ・ドッグいわく、ここでの「G」は「ギャング」ではなく「ゲットー」の略。)

1993年、ドレーは前年から共演をスタートしたスヌープ・ドッグをプロデュースすることとなります。デビュー・アルバム「Doggystyle」は、初のビルボード・チャート1位デビューという大ヒットを記録。スヌープ・ドッグの成功により、ドレーのプロデューサーとしての地位をは確固たるものとなりました。

1996年には、2Pac、Roger Troutman共演の「California Love」をプロデュースし、自らも客演することで大ヒットさせました。しかし、同年の終わり、2Pacが死亡し、Suge Knightが脅迫罪に問われて逮捕されたことにより、Death Row Recordsの存在が危うくなりました。これを受けてドレーは同レーベルを脱退することとなります。


独自レーベルの成功とドレーの成功

billboard-japan.comより出典

1996年、Death Row Recordsを脱退したドレーは、自らの手でAftermath Entertainmentを立ち上げ、数々のアーティストと契約を交わします。設立当初の商業的失敗こそありましたが、1999年にEminemの「The Slim Shady LP」、2000年に「The Marshall Mathers LP」、2003年に50Centの「Get Rich or Die Tryin’」、2012年にKendrick Lamar のメジャーデビューアルバム「Good Kid, M.A.A.D City」をプロデュースするなど、その時代に名を馳せるヒップホッパーを軒並みプロデュースし、Aftermath Entertainmentは大きな成功を収めます。

また、ドレー個人としては、1999年に2作目のアルバム「2001」を発表し、初週のセールスが50万枚を越えるヒットとなります。そして、2000年には「ザ・マーシャル・マザーズ LP」と「2001」における業績で、グラミー賞のプロデューサー・オブ・ザ・イヤーを獲得しました。

2008年にはドレーはJimmy Iovineと共にヘッドホンブランドBeatsを立ち上げ、アーティストたちの支持を集めたことで全世界で爆発的な人気を博します。、ミリオンヒット商品となったBeatsは、2014年にオンライン音楽ストリーミングBeats Musicと共に、Appleに30億ドルで売却され、ドレーは世界で最も高収入のミュージシャンとなりました。 


ドクター ドレーの代表曲

Straight Outta Compton

ドレーが所属したN.W.A.の1987年のデビュー・アルバムの収録曲。過激なストリート生活のリアルを綴ったリリックとその攻撃的な楽曲は、「ギャングスタ・ラップ」と呼ばれる新たなラップスタイルを確立しました。

 

Nuthin’ But A G Thang ft. Snoop Doggy Dogg

デビューアルバム「Chronic」のファーストシングル。Leon Haywoodの「I Want’a Do Something Freaky To You」をサンプリングしたドクター ドレーの代表曲です。

 

Still D.R.E. ft. Snoop Dogg

セカンドアルバム「2001」の収録曲。弦楽器のメロディを重ねたメロディアスな楽曲で、ドレーの中でも1、2を争う人気曲です。


いかがでしたか?

彼の個人とプロデューサー両方の業績を知ることで、ヒップホップの歴史を今までより少し深い視点で見ることができたのではないでしょうか?

USラッパーについてもっと知りたい方は「USラッパー20選【2020年最新版】」を参考にしてください。